鍵男
夏の終わり、東京。生暖かい夜が満ちている。道路脇の草むらから立ち上る虫の声に、時折、思い出したかのように鳴く蝉の声が降り注ぐ。都会では蝉も眠らない。
窓の灯りを目指しヒトは帰路を急ぐ。駐輪場に愛車を止め鍵をかける男がいる(5…)。巨大なマンションの入り口。オートロックの扉にキーを差し込む(4…)。小窓から、老眼鏡越しにこちらを伺う管理人。目を合わさぬよう、うつむき加減で通りすぎる。壁一面を覆う銀色のポストに小さな鍵を合わせる(3…)。ダイレクトメール、ピザ屋のメニュー、不動産のチラシ。色とりどりのゴミを選り分け、エレベーターホールに立つ。間もなく降下して来た一番右の初号機に、誰とも乗り合わせぬよう、足早に乗り込んだ。
音もなく到着したフロアには、同じ色調のドアが果てしなく反復を続けている。突き当たりを示す緑色の非常灯が遠い。数あるドアのうちのひとつの前に立ち止まり、ドアノブの上(2…)、そして下の(1…)ロックを解除すると、男は扉の向こうに消えていった。(0…)今日もやっと、自分の居城に還ってきた。5つの鍵に守られた安寧の空間。一日の終わり。
「ただいま」暗がりに声が響く。応答はない。こもった空気と、ひんやりとしたフローリングの床。台所の小さな蛍光灯をつけ、テーブルの上に鍵の束を置く。上着を脱ぎ、冷蔵庫の扉をあける。整然と並ぶミネラルウォーターを取り出すと、口をつけながら浴室に向かった。残り湯が張ったままのバスタブのふちに腰をかけると、栓を垂直に抜く。水位が下がっていく様子をぼんやりと眺める。
『しばらく実家に帰らさせていただきます。連絡は寄越さないでください』
一切の無駄のない、手本のような書き置きを残し、妻が3歳になる娘を連れ、出て行ってからはや1週間が経つ。
思い当たる節はいくつかあるものの、これといった決定的なものが見つからない。それ故、話し合いの余地も歩み寄りもない。怒りや悲しみといった感情も特に湧き起こらず、故に、連絡をとろうとも、迎えに行こうとも思わない。再度、思考を整理し、一人、納得する。
ズズッズズッという音を発しながら、排水口に飲み込まれていく渦。はじめ小さかった渦は、次第に大きな潮流となる。ゴゴゴゴゴ−−−−左巻きか。北半球に発生する渦が左巻きであることが、地球の自転のせいだったか、公転のせいだったか考えているうちに、男の意識は暗転した−−−−。
東京アンダーグラウンド (上巻)
地下鉄11号線
駅の構内らしき場所で、ベンチに横たわっている。隣には黒いトレンチコートの男。帽子を目深にかぶり、ストールを鼻の上まで巻き上げている。
「やぁ、お目覚めかね」
声をかけられ、状況を把握できないまま、とりあえず起き上がる。
「あ…」
意識が次第にはっきりしてくる。酔いつぶれて寝てしまったわけではないらしい。全身びしょぬれなのに気づく。上着も鞄もない。靴は履いている。手に握りしめているのは…鎖の先にぶらさがった風呂の栓。風呂の栓? 一気に記憶がフラッシュバックする。
「梶原君」
混乱の中、自分の名前を呼ばれ、我に返る。隣にいるこの男は誰だ? なぜ、自分の名前を知っている?
「落ち着いてこれからの話をきいてくれたまえ。私の名前はビリー718。君のガイド(案内人)だ。現在、ドーナツ化戦争という非常事態において、君は、こちらの世界への拘留が決定された。拘留は政策の一環として施行される故に、残念ながら君に拒否権はない。但し、こちらの世界において地上へ出る行為以外、行動の制限はない。以上」
「………」
ドーナツ化戦争? ドーナツ化現象の間違いじゃないのか? こうりゅう、せいさく、きょひけん…ひとつずつ当てはまる漢字を思い浮かべながら頭を整理するものの、自分といまいち繋がらない。ははん、こいつが酔っぱらいということか…。びしょぬれの自分はしばし棚にあげ、少し冷静さを取り戻す。周りの状況からして、どうやらここはどこかの地下鉄の駅のようだ。
「ドーナツ化現象は知っているかね? 都心部の開発によって、中心部に商業施設や事務所が集中し住宅地が減少、郊外に人口が流出する現象だ。これによって都心部と郊外地区での人口密度差が問題になり−−−−」
「あの、すみません」
「何だね?」
「ここはどこ…、いえ、何駅ですか?」
「帝都高速度交通営団地下鉄11号線、永田町駅」
「半蔵門線か…」
聞き慣れた駅名に明らかにほっとすると、梶原は握りしめていた風呂の栓をポケットにしまった。ポケットに鍵の束が確認できる。財布が見つからないが、まあどうにかなるだろう。
「えっと、ビリーさん」
「ビリー718だ」
「…ご迷惑をおかけしてしまったようで申し訳ない。あとは自力で帰れますので、ありがとう」
梶原は立ち上がると、出口らしき方向へ歩き出した。時計の針は2時5分前をさしている。終電はもうないな。
「梶原君。君は帰れないと伝えたはずだが?」
「大丈夫ですよ。車を拾って適当に帰りますから」
梶原は振り向きもせず手をひらひらと振る。おかしな男には関わらないに限る。
「おやすみなさい、ビリー718さん」
電車の音も人の気配もない、しんとした構内を出口らしき方向へ足を早めた。
石化兵
コツコツと靴の音が響く。どうやらビリーという男がついてきているらしい。改札だ。ポケットを探ってみるが、切符はない。財布がないのは先ほど確認済みなので、駅員の姿が見えないのをいいことに、梶原はひらりと自動改札を乗り越えた。何も起こらない。ピッ…背後で電子音がする。ビリーはICカードで改札を出たようだ。階段の先、地上へ続く出口は当然の如く閉鎖されていた。しかし、どこかに従業員用の非常出口があるはずだ。仕方がない、駅員を探すしかないか。改札へ引き返そうとしたその時、構内の蛍光灯がパチリ、パチリ、と奥から順に消え始めた。
「まいったな…」
ビリーも次第に面積を増す闇を見つめている。
「石化兵が来る…」
「え?」
辺りは完全な闇に支配された。暗闇はただならぬ存在感と質量をもって纏わりついてくる。慣れない目を必死にこらして、男はビリーの気配を探る。やがて、すぐ近くでぼうっと緑色の光が浮かび上がってきた。LED発光体の数字。
「07734? …電卓?」
「しっ…」
ビリーの静止で続く言葉を飲み込む。やがてあちこちで、緑色の数字が点き始めた。差し出される光源。『(hELLO)ハロー』
『(hELLO)ハロー』『(hELLO)ハロー』『(hELLO)ハロー』『(hELLO)ハロー』…。最近見られなくなった旧式のLED電卓は、暗闇の中で無数のメッセージを投げかけていた。暗闇に電卓をはじく音だけが響く。梶原の周りから、メッセージが変化し始める。
『3451(IS hE)彼は?』
ビリーがそれに応答する。
「718 … (BIL)、ビリー718」
そう呟いた途端、周囲の光源が一斉に消えた。音もなく暗闇がざわりと殺気を放った気がした。
「ぐっ…」
ドスッという鈍い音と共に腹部に激痛を感じ、思わず膝をつく。薄れ行く視界に入る電卓の光。
『09(GO)去れ』『09(GO)去れ』『09(GO)去れ』…。
梶原は今日2度目の暗転を迎えた。
マンホール
「やぁ、お目覚めかね」
腹部に残る鈍痛に顔をしかめながら、隣の黒いコートの男をギロリと睨む。
「そんなに怒りなさんな、説明するヒマもなかったものでね」
辺りは薄暗い。坑道の中のようだ。申し訳程度に光る蛍光灯がポツリポツリと奥まで続いている。
「さっきの奴らは石化兵。帝都の犬だ。ああ、帝都というのはこちらの世界でいう政府のこと。石化兵は暗闇と共に集団で移動している。彼らは真っ黒で堅い、そう石のようにね。ナイフや弾丸は通用しない。耳はいいが、口はきけない。固まってるんだ。頭も堅いが、口も固いってね、ハハハ…」
「…で、俺が殴られる理由は?」
「彼らの任務は主に警備、拘留者の脱走を防ぐこと。君たちのような拘留者にはコードがないから、すぐにわかる。攻撃されたのは…不運だったね」
「コード? ああ、718とかいうやつね…」
「まあ、逃げようとか下手な考えを持たないことだ。闇がある所ならどこへでもやつらは瞬時に移動できる。そしてこの世界は闇だらけだ。なにせ地下世界だからね」
何かが梶原の頭にひっかかる。ビリーの先ほどの言葉。確か「君たち」と言っていなかったか? ぐるりと首をひねる。自分をはさんでちょうどビリーと反対側にその存在を確認する。黒のライダースに濃い色のサングラス。表情は見えないが、こちらに注意を払うことなく1点を見つめて座っている。手には銀色に光る、西部劇にでてきそうなピストル風のドライヤー?
「ああ、紹介しよう。私がガイドを担当するもう一人のゲスト(拘留者)、マッド君だ。マッド君、こちらは梶原君、しばらく行動を共にしてもらうことになる」
「…どうも」
ゆっくりとこちらを振り返った男は、ボソリと呟いた。自分よりも若そうだ。
「はじめまして…マッド…くん」
「マッドでいいっスよ、梶原サン」
意外と礼儀正しい若者言葉に内心ほっとしつつ、なんとか会話をしようと試みる。
「あ…君はどこから?」
「マンホールっス」
「マンホールって………」
即答したマッドの言葉の意味に、自分の置かれた尋常ではない状況を思い出し、頭をフル回転し始める。呑気に自己紹介している場合なのかどうかも含め。
「梶原サンはどちらから?」
「………風呂場の排水口……かな」
なるほど、といったていで頷くマッド。
「その、手にしているやつはドライヤー?」
「石化兵は熱に弱い。溶けちまうんですよ、ぐにゃりぐにゃりってね。ドライヤーは奴らに対抗できる唯一の武器っス。上モノでしょ」
「ああ、いいんじゃない?」
満足げに大きく頷き返すマッド。会話が途切れる。沈黙。
「さて、ではそろそろ行こうか」
ビリーが立ち上がると、二人についてくるように促す。続くマッド。
「ちょっと……待っ……」
重たい体を無理矢理起こすと、梶原もとりあえず後を追う。
「どこへ行くんですか!」
「どこって、我々の世界だよ、梶原君」
先を歩いていたビリーは立ち止まり振り返る。大げさに右手を胸に置くと、うやうやしく頭を下げた。
「ようこそ、東京アンダーグラウンドへ!」
(つづく)